ログイン「――あの、とりあえずスーツが濡れてるので拭かないと……。クリーニングに出されるなら、費用は私が」
私はあわあわとバッグからハンカチを取り出し、彼のお高そうなスーツの水をかぶってしまったところをせっせと拭き始める。ひっかけてしまったのは水だけだったのでシミにはならないだろうけれど、これがグラスに入っていた水割りだったらどうなっていたのだろう? ――ちなみに、水割りはキレイに飲み干していたのだけれど。
万が一クリーニングに出さなければならないとなったら、一体いくらかかるんだろう……?
「ああ、いいですよ。これくらいならすぐに乾くでしょうし、クリーニングに出す必要はありませんから」
「そうですか? よかった……」
彼は相当温厚な性格の人なのだろうか? それともこれくらいのスーツを何着も持っているような富裕層だから、濡れたくらいは気にならないのか。私や翔太みたいな一般ピープルだったら、こういう時絶対に怒って「弁償しろ」、もしくは「クリーニング代払え」と言うところだろうに。
「そんなことよりも、あなたは大丈夫なんですか?」
「え……? 私ですか」
「ええ。僕、さっき光景を一部
「…………はい。彼だけじゃなくて、あの女の子の方も同じ会社です。彼とは部署は違いますけど同期入社で、彼女の方は会社の受付嬢です」
同じ会社の中で、彼氏が私と別の女と二股をかけていた。何とも情けない話だ。もう三年も付き合っていたのに、なかなか気づくことができなかったなんて。
「今夜このまま帰っても、あなたの中にモヤモヤが残るだけでしょう? こうなったのも何かの縁ですから、よかったら僕に話を聞かせてもらえませんか? そうだな……、今夜は天気もいいし涼しいし、そこのベンチにでも座って」
今は六月の初旬。昼間は蒸し暑いけれど、夜はまだ涼しい。外で座って話すのにもいい気候だと思う。
それに何より、私はこの男性の優しさや気遣いが嬉しかった。私に迷惑をかけられて怒ってもいいところなのに、怒るどころか話を聞かせてほしいだなんて。
(……どうしよう? 私、この人のこと好きになってしまいそう)
失恋したばかりだからだろうか。こんなにも簡単に、別の男性に心を許しかけているのは。心の中にある穴を、この人で埋めようとしているなんて……。
「……はい。それじゃせっかくですし、私の話、聞いて頂いてもいいですか?」
「もちろん。言い出しっぺは僕ですから」
というわけで、私たちはすぐ目についたベンチに並んで腰を下ろした。
「……あ、申し遅れました。僕、こういう者です」
彼から差し出された名刺を、私は何のためらいもなく受け取って眺めた。そこに書かれている肩書にビックリする。
――〈株式会社
「えっ、副社長!? 失礼ですけど、年齢はおいくつですか?」
「三十になったばかりですが。父が社長でね、僕は次期社長ということになりますか」
「ああ~、そういうことなんですね。……あ、私も自己紹介しないとですよね。私はこういう者です」
彼から名刺を頂いたので、私も渡さなければと名刺入れから一枚取り出して、彼に差し出した。
「〈
「アイの方です。ちなみに年齢は二十七歳で、総合職で入社しました。元カレは一般職だったんですけど」
そこからポツリポツリと、私は翔太や怜という受付嬢との間に何があったのかを話し始めた。
私と彼との出会いは内定式だったこと。総合職と一般職なので配属先が違っていたけれど、入社二年目に社内のイベントで意気投合して交際を始めたこと。付き合いが続いていくうちに、彼が私と自分の収入の差に
「――それで、今日に至ったわけです」
「なるほど。一つ訊いてもいいかな? 藍さんは、彼のこと本当に好きだったのかな?」
「…………さぁ、どうなんでしょう。自分でもよく分からないんです。ただノリで付き合っていただけなのかも。だから彼が二股をかけているって分かった時に、彼への気持ちはすぅっと冷めていった気がします。でも、さっき別れを告げた後に虚しさが残ったので、やっぱり好きだったのかなぁ」
――それから数日後、私の退職願は正式に人事部に受理され、社員証を返却して私の退職手続きは無事に完了した。あとは有給休暇を消化しているうちに芹澤ホールディングスの面接を受けるだけ。 しばらくは貯金を崩しながらの生活になるけれど、幸いにも給料が高かった分(月給にして六十万はもらっていた)、貯金の額も相当あったので生活に困ることはないだろう。 翔太の連絡先は削除したし、メッセージアプリのアカウントもブロックした。あとはせいぜいあの受付嬢とよろしくやっていてくれ! さらば二股男! 間違っても私に未練なんて残すなよ。「――悠巳さん、藍です。成南商事の退職手続きが無事終わりました」『そうですか。お疲れさまでした』 お昼過ぎに悠巳さんのスマートフォンの番号に電話すると、ちょうど彼も時間が空いていたらしく、すぐに応答があった。「はい。あと、元カレの連絡先も消しましたし、メッセージアプリもブロックしたのでちょっとスッキリしました。――それで悠巳さん、私、第二秘書の面接を受けようと思ってるんですけど。いつごろそちらへ伺えばいいでしょうか?」『そうか、受ける気になってくれたんだね。ありがとう。それじゃ、来週の月曜の午前十時から採用面接を行うから、その時に来てほしい。この面接は個別ではなく、三人同時の面接となるけど、そこは大丈夫かな?』「はい、大丈夫です。前の会社を受けた時にもグループ面接でしたから。三人いる中で、自己アピールがしっかりできればいいってことですよね?」 私とて就職活動はこれが初めてではない。ただ、今回は中途採用の面接ということだ。他の応募者は秘書経験者がほとんどだろうから、秘書経験のない私は不利になるかもしれない。そんな中で、いかにして他の応募者に負けない自己アピールをするか。それが試されるのだと思う。『そういうこと。さすが、前職で次長まで務めていただけのことはあるね。そういうハングリー精神、僕は好きだな』「ありがとうございます。今のは誉め言葉と受け取っておきますね。――それで、面接の際に必要なものは何でしょうか」『履歴書と職務経歴書、筆記用具……くらいかな。あとは、「この面接に絶対に受かるんだ」っていう意気込みとね」「はい」 最後の一つは絶対に冗談で言ったのだろうなと思い、私は電話口で吹き出した。悠巳さんって、けっこうユーモアもある
――そして週明けの月曜日。会社に出社した私はさっそく受付嬢の広岡怜と出くわした。「おはようございます、緒方さん」 社内では唯一華やかな制服がある受付嬢の一員である彼女は、表向きは爽やかな笑顔で私にも挨拶をした。でも私は分かっている。彼女のこの笑顔は、私に向けられた勝利者の笑みであると。「おはよう」 どうせこの生意気な小娘と顔を合わせるのも、あとわずかな期間だ。私も笑顔で挨拶を返すと、彼女はあんぐりと口を開けたまま固まり、他の受付嬢たち――多分先輩たちだろう――から怪訝な顔をされていた。……ざまぁみろ。「勝ち誇った顔」っていうのはこういう顔のことを言うのよ、小娘ちゃん。 ちなみに成南商事は有楽町に地上二十五階・地下一階の二十六階建ての自社ビルを構える、そこそこ大きな一部上場企業である。でも、悠巳さんが副社長を務められている芹澤ホールディングスはこことは比べものにならないくらいの規模を誇る超一流の大企業だ。自社ビルは虎ノ門のオフィス街にあり、地上三十二階・地下二階の三十四階建てなのだとか。 エレベーターに乗り込み、向かったのは二十四階にある経営企画部のオフィス。社員証のIDでチェックインすると、私は退職願を提出すべく、まっすぐに部長のデスクを目指した。「――部長、おはようございます」「ああ、緒方君、おはよう。……あの、これは?」 冴えない五十代前半・男性の部長は、私がデスクに置いた封筒に目を丸くした。週末までは私にまったく退職する気配がなかっただけに、彼にとっては寝耳に水だろう。「退職願です。私、一身上の都合でこの会社を辞めて転職することにしました」「……へっ? てっ、転職ぅ!?」「はい。入社して四年、この部署でナンバー2のポジションにまで昇進できたのは部長のおかげだと思っていますし、感謝もしています。この会社を去ることに残念な気持ちもありますが……、もう決めてしまったことなので」 私はこの上司に対して恨みは一切ない。若くして総合職――つまりは幹部候補として配属された私によくして下さっていた彼には本当に感謝しているし、部長に次ぐ次長というポストに就くことができたのも、彼が私の仕事ぶりを正当に評価して下さったからだと思っている。「…………そうか。君のような優秀な部下を失うのは非常に残念でならない
――未練なんて残さないつもりだったのに、どうしてこんなに虚しいのだろう。そもそも、この虚しさの原因は本当に翔太への未練なのだろうか? ただ、私のこれまでの努力や積み上げてきたキャリアを、アイツに「可愛げのない女」の一言で全否定されたからかもしれないけれど……。「……あの、藍さん。僕から一言いいかな?」「はい? ……ええ、どうぞ」「藍さんは『可愛げのない女性』なんかじゃないと思う。僕の見た限りではすごく美人だし、スタイルもいいし。でもそれだけじゃなくて、内面からの美しさが表に現れているというか。自分のキャリアを誇りに思っているからだと思うけど、すごくキラキラして見えるよ。僕はそういう女性こそ魅力的だと思う。ハッキリ言って、あの元カレの目は節穴だ。あんな、若いだけで頭の悪そうな女性に惹かれるなんて。……おっと、これは失言かな。うっかり心の声が出てしまった」「…………はぁ」 私のことはベタ褒めするくせに、翔太と怜のことはボロカスに毒舌を吐きまくる芹澤さんを、私は不思議な感情を抱きながら見ていた。……ヤバい。私、本当に彼のことを好きになってしまうかもしれない。「――それはともかく、あの二人とは同じ会社なんだよね? 週明けから居心地悪くなるんじゃないか?」 今日が週末の金曜日でよかった。とりあえず明日と明後日はあの二人と顔を合わせずに済むからだ。とはいえ、週明けからは翔太はともかく、受付嬢である怜とはイヤでも顔を合わせることになる。その時にあの女が私にマウントを取ってくることも目に見えていて、何だかムカつく。「そうですね……。元カレはともかく、受付嬢とは顔を合わせないわけにもいきませんから。あの女の勝ち誇ったような顔を見ただけではらわたが煮えくり返りそうです」「だったら、思い切って転職するのもひとつの手だと思う。そこで、だ。藍さん、ウチの会社に来ないか?」「……えっ? 転職……ですか?」 思いがけない話しの展開に、私は目をしばたたかせた。この人――芹澤さんは、自分に(巻き添えとはいえ)水をぶっかけた張本人である私にそこまで親切にしてくれるのだろう?「うん。ちょうど、僕の第二秘書が実家の都合で退職してしまってね、欠員が出たんで募集をかけているところなんだ。藍さんもそれに応募するといいよ。ちなみに月収は七十
「――あの、とりあえずスーツが濡れてるので拭かないと……。クリーニングに出されるなら、費用は私が」 私はあわあわとバッグからハンカチを取り出し、彼のお高そうなスーツの水をかぶってしまったところをせっせと拭き始める。ひっかけてしまったのは水だけだったのでシミにはならないだろうけれど、これがグラスに入っていた水割りだったらどうなっていたのだろう? ――ちなみに、水割りはキレイに飲み干していたのだけれど。 万が一クリーニングに出さなければならないとなったら、一体いくらかかるんだろう……?「ああ、いいですよ。これくらいならすぐに乾くでしょうし、クリーニングに出す必要はありませんから」「そうですか? よかった……」 彼は相当温厚な性格の人なのだろうか? それともこれくらいのスーツを何着も持っているような富裕層だから、濡れたくらいは気にならないのか。私や翔太みたいな一般ピープルだったら、こういう時絶対に怒って「弁償しろ」、もしくは「クリーニング代払え」と言うところだろうに。「そんなことよりも、あなたは大丈夫なんですか?」「え……? 私ですか」「ええ。僕、さっき光景を一部始終見ていたんですが。なかなかの修羅場だったようなので、あなたのメンタルの方は大丈夫かなと思って。彼とは職場恋愛だったんですよね?」「…………はい。彼だけじゃなくて、あの女の子の方も同じ会社です。彼とは部署は違いますけど同期入社で、彼女の方は会社の受付嬢です」 同じ会社の中で、彼氏が私と別の女と二股をかけていた。何とも情けない話だ。もう三年も付き合っていたのに、なかなか気づくことができなかったなんて。「今夜このまま帰っても、あなたの中にモヤモヤが残るだけでしょう? こうなったのも何かの縁ですから、よかったら僕に話を聞かせてもらえませんか? そうだな……、今夜は天気もいいし涼しいし、そこのベンチにでも座って」 今は六月の初旬。昼間は蒸し暑いけれど、夜はまだ涼しい。外で座って話すのにもいい気候だと思う。 それに何より、私はこの男性の優しさや気遣いが嬉しかった。私に迷惑をかけられて怒ってもいいところなのに、怒るどころか話を聞かせてほしいだなんて。(……どうしよう? 私、この人のこと好きになってしまいそう) 失恋したばかりだからだろうか。こんな
――どうしてこうなってしまったのだろう? 一体、私の何がいけなかったのだろう? 私はただ、普通に人並みの恋愛がしたかっただけなのに……。 ここは東京・有楽町にある一軒のバー。会社帰りの私――緒方藍は、テーブル席で一組の男女と向き合っていた。 男の方は入間翔太。私と同じ二十七歳で、私とは別の部署だけれど同じ会社に勤めている、私の彼氏だった。 そして女の方は広岡怜。私たちより三つ年下の二十四歳で、ウチの会社の受付嬢だ。何でも役員の娘らしく、コネで入社したのだとか。 そんな二人がどうして私と対峙しているのか、その理由はただ一つ。翔太がよりにもよって、この怜という女と私と二股をかけていたことが分かったからだ。怒り狂った私は会社帰りにこの二人を呼びつけ、決着をつけることにしたのだ。「……ねえ翔太。こうやって呼ばれた理由、あんた分かるよね?」「オレが……お前と怜ちゃんと二股かけてたからだろ?」 そう答えた彼の口調や態度に、反省している様子も悪びれる様子も見当たらない。私は余計に腹が立ってきた。「なぁんだ、ちゃんと分かってるじゃない。あんたさぁ、私に対して少しでも申し訳ないとかそういう気持ちはないわけ?」「なんで翔ちゃんが責められないといけないの? こうなったのは藍さんにも責任あるんじゃ――」「あんたは黙らっしゃい! 今はあんたじゃなくてこの男に訊いてんの」 私は口を挟もうとした怜という小娘を、テーブルを叩くことで怒りをもってシャットアウトした。「……で、どうなのよ? 翔太、あんたもちろん、このままでいいとは思ってないよね?」「オレも……、こうなった原因は藍、お前にもあると思ってる。お前が可愛げのない女だから、オレは怜ちゃんに惹かれたんだよ」「…………はぁっ!?」「お前は総合職だし、俺より仕事できるし給料もいいじゃん。お前みたいな女と付き合ってるせいでな、オレのプライドズタズタなんだよ! だからオレは怜ちゃんとも付き合うことで癒されてんの。それのどこが悪いんだよ?」「いいわけあるかぁ! あんた、いい加減にしなさいよ!? それならなんで私とも付き合い続けてんのよ? さっさと別れてその女とだけ付き合えばよかったじゃん